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世界一大事にされてた子どもたち??

♪今さら〜といわれても…

今さら…と、言われるかもしれませんが、今回はあえて書いてみようと思います。それは「子育て」についてです。

最近、読んだ本にこんなことが書かれていました。その本は、ここまでわかった子どもの心と脳というサブタイトルのついた『アスペルガー症候群と学習障害』(講談社α新書)という榊原洋一さんという小児科医が書かれた本ですが、冒頭の「大事にすればいい子に育つ?」に、『日本は昔から子どもをかわいがる文化的背景を持った国である」というのが、江戸時代に長崎の出島を訪れたケンペル(1651〜1716年)やツンベルク(1743〜1828年)といった当時のヨーロッパの文化人がみな口を揃えて「日本では子どもが大事され、体罰が少なく、それでいてよくしつけられている」と賞賛していると書かれていました。

実際にツンベルクは日本滞在中に記した紀行文で「注目すべきことに、この国ではどこでも子どもをムチ打つことはほとんどない。子どもに対する禁止や不平のことばは滅多に聞かないし、家庭でも船でも子どもを打つ、叩く、殴るといったことはほとんどなかった。まったく嘆かわしいことに、もっと教養があって洗練されているはずの民族に、そうした行為がよく見られる」と書いています。
このツンベルクという人は、当時、鎖国政策のため、オランダ人しか入国できなかった時代に自らの出生を偽ってまでも来日を果たし、念願だった日本の人々の暮らしを自分の目で確かめ、できるだけたくさんの見聞を行い、それらを客観的に記述したのです。専門の自然科学の研究業績により、のちに本国スウェーデンのウプサラ大学総長、そしてまた、ストックホルム科学アカデミーの総裁にまでなった人です。
そして、この時代からさらに100年経過した明治維新直後の日本を訪れたモース(日本ではじめて進化論講義をした新進の動物学者)も、当時の日本の子どもたちの様子をみて書き残した日本滞在記『日本その日その日』の中に「いままでのところ、お母さんが赤ん坊に対してかんしゃくを起こしているのを一度もみていない。私は世界中で日本ほど赤ん坊のために尽くす国はなく、また、日本の赤ん坊ほどよい赤ん坊は世界中にいないと確信する」とあります。

これだけを読んでも現状の「子育て事情」を少し振り返ってみる価値があるかもしれないと、昨今の子どもと大人(親)との関係に、いま何が起こっているのかを再考してみたい気持ちになりました。

♪どこを機に「子育て」が変わったのか…?

日常の相談業務の推移をみても、「どうしよう〜〜?」という深刻なケースから、実にたわいのない日常のことまでが話せる土壌が生まれて、「相談」そのものがやりやすくなってはきていることは感じています。しかしその一方では、依然、立ち往生されているケースが急増しているのも事実のようです。
ひと昔前なら、「心理相談」というだけで敬遠されたり、「相談できるくらいなら悩まない…」と、心情的な出来事を他者と共有することを極端に嫌がったりする傾向があったりもしましたので、なかなか親御さんの本音を聞き出すのは難しかったのですが、いつの頃からか、私たちの相談業務も、親御さんたちにとって「子育て」を考える機関として、少しは欠かせない場になってきたような気がしています。

これまでとは違って密室状態で煮詰まってしまいがちな「子育て」を、家族以外の誰かのところにもっていって考えられるようになったことで、お母さん一人が難しい役割を担うのでなく気持ち的にもしんどさから解放されたのなら、相談を受ける側としては嬉しいことです。
しかし、形式にとらわれず、井戸端会議的な発想で「相談」の場が開かれるにはまだまだ時間がかかりそうです。
その一方、いささか厄介なことに、誰でも簡単に話しができるようになったことからか、ことあるごとに注文や文句をいう「クレーマー」や、先生方にとっては脅威の存在である、「モンスター・ペアレント」と呼ばれる新種の大人(?)の出没に、私たち相談現場がふり回されていることも忘れてはなりません。

♪中途半端な失敗経験

子どもたちを取り巻く社会環境が、めまぐるしく変化しているのは事実です。かつて登校拒否からはじまった子どもを取り巻く社会現象も、不登校、そして、気がつけば「ニート」…へと。いささか出てくる現象がマイナス要因と直結しているめに、社会=大人が、この現象に過敏になっているというのも事実でしょう。
その上、教育現場では、心=感性や心情にまでいちいち評価をつけるということが起こっているようですから、大人側の「不安」が、一方的に子どもたちへの過干渉を誘発しているのかもしれません。この結果、子どもたちから「失敗する」経験を奪っているのでしょう。せっかくの貴重な体験をしても、「ちゃんとは困れない」中途半端なところに止まっているような気がします。要するに、子どもたちが困ることで、困ってしまう大人が多いのかもしれません。

「ちゃんと困る」という言い方は少し不思議かもしれませんが、どんなときにも、いちばん大切なのは、「ちゃんといいかげんに生きられること」に相通じるのではないでしょうか。
そして最近、普通に〜、当たり前に〜といった感覚を相手と共有することが簡単ではないことで困っている自分に気づかされることが多くなりました。そのたびに、幼児期の体験が、次の自分の土台を作り、社会に出たときの軸となって、社会参加をし、最後は大袈裟かも知れませんが、その人がどんな生き方や死に方をするのかまで左右することにつながっていくだろうという思いが脳裏をかすめます。だからこそ、「みんで渡れば怖くない〜」的発想は、あかんやろって言いたくなってしまうのです。

♪「チャンス」を創りだす勇気

最後にもう一度、私たちは相手との関係をつなぐため、「上手」「いいね」というほめ言葉を、あまりにも簡単に使っていないだろうか…について考え直してみました。

たとえば、「子どもはほめられるのが一番すきだから、ほめると何でもするだろう」という大人側の勝手な思いや、「ほめさえすればこちらの言う通りになる」という職場の上司との関係、さらには、「いろいろ考えても子どもはどうせ好きにしかしないんだから…」というぶつかりを最初からさけてしまった希薄な対応など…。
どうも、「子育て」だけでなく、大人の関係の中にも同様のことが起こっていると考えられないでしょうか。物心ともに豊になり、いろいろなことが思うようにできていってるなずなのに、充足感や達成感が希薄でどれだけ好きなことをやっても、いまは欠損感に似た感情を抱く大人や子どもが多いのはなぜでしょう?

「失敗したっていいじゃない、やってみればと…」と言える、『チャンス』を共に創り出すことへの勇気が、試されているような気がします。

冒頭に紹介した文献によると、外国人の筆者たちが残らず一致するのは、他のどの国の子どもたちよりも多くの自由を持ち、大切に扱われることで、甘やかされて増長することなく成長を遂げている日本の子どもたち…とありますが、どうもいまはこのことが簡単では無くなってきている…、この辺りに昨今の「子育て」事情の謎を解く鍵が潜んでいるのかもしれません…。

さてさて、もしもいまあの当時のヨーロッパの先人たちが、日本のこの現状を見たとしたら、果たして何を思うでしょうか?

ちょっと聞いてみたいような気がしませんか?

〜たちのゆみこ〜